俺の心の3つの「教訓を得たゲーム」

様々なテーマの「俺の心に浮かんだ3つ」を挙げていきます。
今回は「教訓を得たゲーム」。生き方の指標みたいなものをいただいた作品たちです。

カルネージハート「回路を作っておく」

OKE(オーバーキルエンジン)という自律動作するロボット兵器を「ハードウェア」と「ソフトウェア」の両方面から構築するシミュレーションゲームである…。

ちょっと何言ってるか分かりませんが、ロボットの行動をプログラムするゲームです。
「敵が見えない時」「敵が正面にいる時」「直進する」「旋回する」「攻撃する」みたいな行動が記録されているチップを組み合わせて、自分なりの思考回路(行動回路?)を積んだロボットを組み上げていくんです。

現実で敵ロボットと戦う機会というのはそうそうないんですが、この「回路を作っておく」という考え方は割と役に立っている気がします。「こうなったらこう動く」「相手がこう出たらこう返す」みたいな。
「人間が1日に決断できる回数には限りがある」なんて説もありますし、こういう「思考の作り置き」みたいなことをしておくと、いざ大事な選択を迫られた時に頭のリソースを取っておけるんじゃないかなとか。そんなことも思います。
ちなみに俺はこのゲームがヘタクソです。

ネオアトラス「迷ったら面白い方を信じる」

このゲームにおける自分は「大航海時代に世界地図を作る勅命を下された商人」です。
最初は地元(ヨーロッパの一部分くらい)のごく狭い地図しかないのですが、世界中に提督を派遣し、見聞を広めて地図を完成させていくのが目的です。

でも、このゲームのゴールは「いかに現実に近い地図を作るか」ということではありません。もちろんそういう楽しみ方もできるけど、それよりも「自分なりの世界地図を作る」という部分に重きが置かれています。
派遣した提督が帰ってくると「陸地はこんな地形で、上陸するとこんなものがあった」みたいな報告をしてくれます。それを逐一「信じる/信じない」で判断していくことによって地図が出来上がっていくのですが、中には突拍子もない報告なんかもあるわけです。有名なものだと「全身から塩を吹くゴリラがいた!」みたいな。
それをありえないから却下するもよし、面白いから信じてもよしなワケです。

現実でもそういう「信じる/信じない」に直面することってあると思うんです。
例えば、実家はイギリスと言っていた知り合いがうなぎパイを持って帰省から帰ってきた場合。これはもう「信じる」の方が面白いと思うので、俺は信じるようにしよう、と。そういうことを教えてくれたゲームです。

風来のシレン「振り出しに戻っても得るものはある」

いわゆるローグライク系という、プレイする度に地形が変わるダンジョンを冒険するゲームです。

ローグライクは「死んだらゼロからやりなおし」というのが、最大の特徴だと思います(例外もあるけど)。
ダンジョンで手に入れたアイテムも武器も、何もかも失って裸一貫で再挑戦をする。せっかく上げたレベルもまた1にリセットされて、何度も何度も挑み続ける。そんなゲーム。

「リセットされるんじゃ成長させる意味がないじゃん」という意見もあります。確かにそういう考えもあると思います。
でもキャラの成長はリセットされてもプレイヤーには経験が蓄積されていて、それは間違いなく「成長」だと思うんです。

遠距離攻撃に手も足も出ずやられたら、飛び道具を封じる道具を使うとか。
不意の罠にやられたら、次からは今まで以上に注意深く罠をチェックするとか。
同じ「レベル1」のキャラでも、最初にプレイした時と最新のプレイでは別人のような立ち回りができるようになる。

実生活で言えば、新しい環境に飛び込んだ時っていうのはレベル1のシレンだと思うんです。
ただ、人付き合いの仕方とか、その場における立ち回りっていう部分で今までに培ったものを生かせる場面はきっとあるはず。
そういうことを俺はこのゲームから教わりました。

ただ俺のゲーム内での立ち回りは一向に上達しないので、現実でもまるで成長していないのかもしれません。

番外編:ウィザードリィ「人は分かり合えない。でも…」

4つ目になっちゃいました。というのも、最近のネットを見て思うことがあったので。
それは「結局、人と人は分かり合えないんだな」っていうことです。
SNSでの対立、分断、不毛な口喧嘩。肌感だけど、ここ数年でグッと増えた気がします。
で、そう思った時に浮かんだのがこのゲームでした。

ウィザードリィは最大6人組でダンジョンに挑むゲームなんですけど、1人1人に性格というものが存在していて。「善」「中立」「悪」の3つなんですけど、「善」と「悪」は絶対に一緒のパーティには入れられないんです。
善にも悪にも強みがあって、それが合わされば最強のパーティになれるにも関わらず、お互い手を取り合おうとしないんです。お互い、冒険者の集う酒場で共演NGを出してるんです。

ただ、これには抜け道があって。
「ダンジョンでたまたま出くわした」という体であれば、善と悪は一緒になれるんです。

善の冒険者がダンジョンに行く。で、たまたま入口で動かずにいる。
悪の冒険者もたまたま同じダンジョンに行く。すると、たまたま入口に冒険者がいる。
たまたま声をかけると「一緒に冒険してくれる仲間を探している」と言う。

この場合、たくさんの偶然が重なった結果、例外として善と悪は手を組めるんです。
この偶然っていうのは「パチンコで勝った人がたまたま同じ方向に行く」とか「お風呂屋さんでたまたま客と店員が恋に落ちる」というのと同じタイプの、わざと起こせる偶然。

バカ正直にちゃんと対立している冒険者がいて。
でもその裏で、こっそり手を取り合っている冒険者もいて。
そういう構図が現代とリンクしているような気がしたので番外編として挙げました。